1985年 「最近のうたごえ運動と今後の課題」- 日本のうたごえ全国協議会 事務局長(当時)高橋正志氏の論述より

 

高橋正志「最近のうたごえ運動と今後の課題」

日本のうたごえ全国協議会 第7回総会方針(「うたごえ新聞」1974年2月1日付より)
日本のうたごえ全国協議会 第7回総会方針(「うたごえ新聞」1974年2月1日付より)

 

...しかし、大衆みずからの自主的な運動として、専門家の協力を得ながら、国民自身が音楽の担い手となって、国民音楽の創造を目指すうたごえの組織活動が停滞し、祭典への結集が弱まってゆくのはなぜか。

 

こうした運動内部の問題解明が必要とされ、74年2月の全国協第7回総会で新方針を生み出した のである...

 

その柱は、一つは文化・社会状況の変化に対応して運動の対象を思い切って広げること。

 

もう一つは、関連して「うたは闘いとともに」「うたごえは平和の力」という運動の源泉を鮮明にしつつも、生活とたたかいの多面、多彩な側面を見落とすことなく創造を重視するとともに、曲目の選択の幅を広げること。

 

あわせて、年間の運動の結集の場である日本のうたごえ祭典を期日・会場、プログラミングなどを多彩で豊かなものにすることや、その後に出されていた運動創立30周年に向けて、その記念事業の展開の提起などであった。

 

以後、新方針 のもとで活動が展開されてきたが、さらに広範な人々にうたごえを広めるという点では、実践上の教訓となる問題点もいくつかあった。

 

「選曲の幅を広げる」ということが一定の成果をもたらすとともに、それまで培ってきたうたごえ運動の伝統の発展を弱めたという側面の生じたことも否定できない。

 

たとえば、創造的成果を多彩に発展させるというより、フォークやロックなどの表現形式を一面的に重視して、かえって選曲の幅を狭め、「多様化」と称する画一化の傾向を起こすということもあった。

 

思い切って対象を広げる問題も、対象を一般化してとらえて、「うたごえ喫茶」や「みんなうたう会」を主な普及の場とする広がりは作ったが、相対的に労働組合や民主団体の中や、その闘いの現場での活動が弱まり、これらの民主的運動への連帯と影響力が弱まった。

 

 “たたかいの時に即応した歌がない” と言われたり、また、たたかいから生み出された歌が大衆的に普及されず、発展していかなかったという反面の原因もここにある...

 

85年全国協第18回総会方針は、今日の社会、音楽状況の分析のうえに立って、今後の運動の役割と展望について、次のように述べている。

 

「'84日本のうたごえ祭典が大音楽会だけで一万八千人を超える規模になり、『音楽的水準でもかつてない内容』をもっていたと内外から評価され、運動史上でも国民音楽祭としても歴史的な1ページを記した。

 

これは私たちが創立以来、一貫して掲げてきた “うたごえは平和の力” “うたは闘いとともに” のスローガンに示されるような国民の生活と暮らしに根ざし、これを真正面から取り組むならば、必ず大きな支持と共感が得られ、運動が限りなく広がっていく可能性のあることを示しています」...

 

これらの状況を踏まえ、40周年に向けた展望と計画では、次のような方針を掲げた。

 

① 国民自身が文化(音楽)の担い手になる一形態としての「一千万人うたう会」をさらに重視、充実させて、サークルの所属する職場、学園、街や村で「みんなうたう会」を開き、その構成員に影響を広げる活動を展開する。

 

② 運動の機関車、創作活動の一層の発展と、民族が培ってきた伝統文化を引き継ぎ発展させ、未来の文化を担うための「郷土のうたと踊り」の活発化と、そのセンターづくり。

 

③ サークル建設をはじめとする組織建設は、すべて現在の倍加を目指す。とくにサークル建設では、全国651市(82年方針)すべてにうたごえサークルをつくる。また、合唱発表会の全県開催と2000団体参加を目指す。機関紙・誌も現在の倍加を目指す。

 

④ 大都市(百万都市)に音楽センターの建設を目指す。

 

⑤ 出版事業活動を活発にし、理論、評論活動を強める。

 

⑥ 第1回「世界のうたごえ祭典」を開き、世界中の民主的、進歩的音楽家、文化団体と交流、連絡する。

 

以上、運動の源流を輝かせ、新たな飛躍のうえに立ち、文化で切り開く21世紀草の根文化への一翼を担うことに誇りと喜びを感じつつ、大きくその歩を進めていく決意である。

 

 

 

 

※出典:「前衛」(日本共産党中央委員会理論政治誌)1985年8月号

 

6・23 全国統一行動 "夜空にひびく安保廃棄"-「うたごえ新聞」1970年7月10日付 第1面
6・23 全国統一行動 "夜空にひびく安保廃棄"-「うたごえ新聞」1970年7月10日付 第1面