藤本洋「うたごえ運動の新しい方針」
...日本のうたごえ祭典は、1966年をピークとして祭典参加は漸減傾向を示し始め、うたごえの中心活動家の間でも、この現象についての原因の究明と、克服への努力が始められていた。
そして、大企業からの攻撃や、一部労組幹部のセクト的なうたごえに対する動きとあわせて、うたごえ自身にも停滞や後退の原因があることが自覚されはじめていた。
そして、運動を「現代化・大衆化」していこうという意見が出されていた時でもあり...はじめ、「現代化・大衆化」についての内容のとらえ方には、運動の歴史的な総括や現状認識の不十分さがあって、全体の共通の認識にまでは高まらなかったが、本格的な検討が始められたのは、うたごえ運動の20周年を記念する事業として取り組まれた歌劇「沖縄」の制作・上演運動の中であった。
歌劇「沖縄」の制作・上演という事業は、その規模からして、かつてうたごえが経験したことのないような大きさをもった運動で、次々と新しい課題に直面しなければならない内容をもっていた。
この新しい課題に立ち向かうためには、うたごえ20年の創造力量、組織力量だけではどうしても力不足であることが明確になり、そこから多くの専門家や、他の民主的文化団体や運動の協力を得て...この事業は成功を勝ちとることができた。
この歌劇「沖縄」の運動の中で、一貫して掲げられた理念として、「大衆を主人公とする」ということがあったが、この問題について、活動家の一部には、大衆即労働者、大衆即うたごえの人であって、専門家はこれに協力すればよいもの、ないしは従うもの、といった図式的な考え方があることが分かり、この誤りが実践的に明らかにされていった。
また、創造問題でも、「生活と闘いを創造の源泉とする」ということが一貫して掲げられて進められたのであるが、闘い即ストライキやデモ、またはそれに類似するもの、といった狭い捉え方があることが明らかになり、その誤りが指摘されるようになっていった。
当然、このような誤った考え方がどこから流れ込んだのか、ということについての検討も行われ、歴史的な運動の総括へと及んでいった...
以上のような、うたごえ運動におきた60年後半からの停滞・後退現象の原因への探求は、数年にわたる実践と理論の両面の積み重ねを基礎に、今年の2月の 全国協議会第7回総会方針 として結実していった...
...同時に、これをすすめる上で障害となっている点を歴史的な総括の中から明らかにし、反省すべき教訓として明記した。
この教訓の主な点を挙げてみると、第一に、うたごえ運動の大きな達成という中で培われてきた理念や原則が、60年代に急激に変化した周りの音楽状況や音楽要求に即応して発展させられたのではなく、それを固定的・観念的にとらえ、むしろそれに合わない状況の方を、米日反動勢力による文化攻勢の影響である、というように一面化してとらえる捉え方があったことである。
これは創造問題にも影響を与え、表現方法やメソッド、祭典の形式、プログラミングなどに類型化や固定化を招き、新しい多彩な表現方法を求める広範な人々の要求に合わなくなり、普及活動のエネルギーを弱める結果を生み出すようになった、ということである...
このような 第7回総会方針 が出された当初、大部分の活動家からは、「時期に適している」「この通りだ」「確信が高まった」などという意見がだされたが、一部の活動家の中には、「うたごえ運動の伝統が否定されたのではないか」「階級的性格が失われたのではないか」という疑問や戸惑いも出されてきた。
しかし、このような疑問や戸惑いも、第7回総会での決定をへて実践が始まる中で、次第に確信と展望へと変化していった...
今回の参議院選挙(1974年7月7日投票)において、自民党の退潮による三割政党への転落、共産党の躍進は、政治革新の国民の要求が、かつてなく大きなものに成長していることを示した。
そして、それは革新統一戦線の結集を熱い思いで願っていることをも明らかにしている...
第7回総会方針 の実践を、それこそ、うたごえ運動の伝統ともいえるバイタリティと創意に満ちて、すべての合唱団、サークル、活動家が生き生きと進め、全国の中小都市、農山漁村、団地、職場、学校、青年、婦人、老人、少年少女などのなかに入っていき、そこにうたごえの新風を巻き起こしていくなら、当面一千万を組織目標としている課題達成も、近い将来に可能であることを示している...
※出典:「文化評論」(日本共産党中央委員会文化誌)1974年9月号