小平時之助(作曲家)
"歌劇「沖縄」論 -創作歌劇の発展のために-"
...ここで演奏のことに触れておこう。
私が二回聞いた限りでは、合唱と独唱は中央合唱団ないしは各地のうたごえ合唱団の中から選抜された歌手が出演していた。
プログラムはダブルキャストになっていて、二期会の若い専門家も名を連ねていた。
その人たちの演奏を聞けないので、評価は多少公正を欠くきらいがあるが、私の聞いた範囲で、この曲の演奏はどうひいき目に見てもよいとはいえない。
合唱団の歌い手は、声や表現力が団の中できわだってすぐれているというだけでは、このような大形式のオペラの独唱歌手にはなれない。
それはわかり切ったことだが、それぞれ専門の勉強をしなければならないことで、逆に一流の独唱歌手だけ集めても、それでよい合唱ができるものではないのと同じことだ。
ことに歌劇では、演奏には演技がともなう。
この二つが別々でなく、一人の独唱者の中で統一して行われるためには、独自の長い訓練が当然必要であり、それに耐えてはじめて、聴衆に満足できるオペラ演技者となれる。
音楽は演奏を通して完成される。
そのためには、演奏者の役割はたいへん重要であり、せっかくのよい作品も、演奏者の選択の如何では、とんでもない誤解をまねくことになってしまう。
だから、私は歌劇「沖縄」を誤解してしまっているかもしれない。
それほど独唱者の役割は重要なのだ。
作曲の場合の集団創作の問題点については冒頭に書いておいたが、同じようなことが、演奏の場合にも言えるのではないだろうか。
少なくともこの歌劇の演奏で、中央合唱団及び各地のうたごえ合唱団の果たす役割は、あくまで合唱団の演奏にとどまるべきではなかっただろうか。
ただしこのことは、当面の問題としてである。
そして近い将来、演技のできる独唱者の養成を、音楽センターは別個に考えて欲しい...
...以上、歌劇「沖縄」の公演を初演と再演と二回にわたって鑑賞した感想だが、このオペラがうたごえの総力をあげて三年にわたって取り組んできた成果であることを前提にして、それが安保体制下の沖縄のきびしい現実がつづく限り、くり返し全国に上演されて行くだろうことを期待したい...
※出典:「文化評論」(日本共産党中央委員会文化誌)1970年7月号